おとえもんの丹波栗へのこだわり

丹波に名高い秋の味覚、丹波栗。

盆地特有の気候で育った栗の味は、まさに栗の王様です。

1.栗の語源

クリは本州・四国・九州および北海道南部に自生し、列島に人が住みついて以来、その生命を支える重要な食糧一つとして今日まで受け継がれています。
丹波地方はその中心的存在として、政治的中央との関係も深く、早くからの栽培と多くの品種の改良や加工に工夫を重ねてきました。
クリという名前は、黒実から付いたという説、くるくる回るクルからという説、朝鮮語のクルに由来するという説などがあります。
朝鮮半島には日本と同種のクリが自生しており、音衛門の幾つかの商品でも使用しております。
栗の字は『本草和名』と『和名聚鈔』の「兼名苑」によれば中国産のシナグリの字をとって日本のクリに当てたものであり、栗の字は『日本書紀』にも用いられています。
和栗の学名はCastanea crenata Siebold et Zuccariniであり、文政六年(1823)に日本に来朝したシーボルトとのちにミュンヘン大学の学長にもなったヅッカリーニが自分の名を冠した学名を名付け、『日本植物誌(FLORA JAPONICA)』として発表したものの一つです。この学名は野生のシバグリと栽培品を含んだもので、日本の栗はこの一種となります。属名のカスタネアはギリシャ語のクリの名、種名のクレナタは葉のギザギザにちなんだ円鋸歯状という意味です。

2.栗の栽培

狩猟採集時代、栄養価が高く、手間のかかる渋抜きや灰合せによってアクを抜かなくても食用に適する栗は重宝されたはずですが、現在野生のクリの多くが自生しているのは原生林ではなく、人が原生林を開拓した後の二次林内である事から、原生林の多かった時代には自然界で劣勢のクリの数はそう多くなかったと推測されています。
縄文時代、気候が温かくなり自然の植生が変わる中、人口増加に伴った伐採や焼畑などによる原生林の開拓の結果、人間の居住環境の周辺ではクリを含んだ雑多な木が生え、クリは寒暖に適応性がある為、広域に広がっていきました。
愛媛県上黒岩の岩陰遺跡から発見されたクリの遺物はおおよそ一万年前のもので、この時代で発見された最古のものです。
200を超える縄文遺跡のうち、クリの出土した例は59箇所を超え、多くは野生のシバグリながら、縄文時代の三内丸山遺跡(青森県・約5500年前)などでは大規模な栗栽培の跡があり、当時から野生種だけを食べていた訳ではない事が分かっています。

縄文時代に始まったクリの栽培ですが、続く弥生時代でも稲作などと共に広く進んでいきました。弥生時代と古墳時代となると残された記録から、クリの栽培が明らかな形で紐解くことができます。
『古事記』では吉野から朝廷への献上品として栗の名前が挙げられています。
『日本書紀』では近江国の粟津(現在の膳所)に栗林があり、クリは貢租にも使われていた事を読み取れます。
『持統天皇紀』では七年(693)の三月十七日に「詔して天下に桑・紵・梨・栗・青菁等の草木を勧め殖えしむ。以て五穀を助くとなり」とあり、古墳時代が終わっても庶民は主食が乏しく、その代用となっていた事が分かります。
『万葉集』の山上憶良の歌「瓜食えば子ども思ほゆ栗はめぼまして偲ばゆ……」からは、飛鳥時代や奈良時代の大宮人は、諸国から貢進したクリを味わっていた事が示されています。
奈良時代に編集された風土記で現在まで残っているものは、五ヶ国分しかありませんが、『常陸国風土記』では行方郡にクリが多いことが示され、『出雲国風土記』にもクリの記述はあり、『播磨国風土記』には若倭部連池子が仁徳天皇から賜った削り栗を揖保郡に植えたところ渋皮のないクリが生え、そこから村の名前を栗栖村という地名逸話が記されています。

地名としての栗栖・栗林は全国に多く、クリを栽培した土地や栗林の存在していた場所と考えられています。
現在、丹波には丹波市(合併前は氷上郡)青垣町に栗住野(もと栗栖野)、篠山市(合併前は多紀郡篠山町)に栗栖野、福知山市(合併前は天田郡)夜久野町に栗尾、綾部市に栗野・栗村、船井郡京丹波町(合併前は瑞穂町)に栗野があり、丹波に隣接する栗産地の大阪府能勢町に栗栖、大海人皇子(天武天皇)にクリを奉ったという京都府宇治田原町に御栗栖神社があります。
また平安時代の『三代実録』などに記される通り、クリは用材としても耐久性が早くから知られて利用されており、曰く「貞観8年(866年)正月20日から常陸国鹿島神宮は20年に一度の修造をしている。伏見の宮造りには栗材を多く用いている(意訳)」とあります。

3.栗の産地【丹波】

丹波の語源には諸説あり、はっきりとしたところは分かっておりません。古代の丹波は但馬・丹後をも内包する巨大な国でした。これが奈良時代に、丹波・但馬・丹後に分割され、丹波の国は桑田・船井・何鹿・天田・氷上・多紀の6群に区分けされ、明治維新の折には、廃藩置県により桑田・船井・何鹿・天田の4群が京都府に、氷上・多紀の2郡は兵庫県に編入されました。平成11年4月に多紀郡の4町が合併し「篠山市」に変わり、平成16年11月には氷上郡の6町が合併し「丹後市」となっております。今日の日本地図を見ればわかるように、丹波は複数の都道府県に跨る巨大な領域を指します。

クリの産地として初めて丹波の名前が具体的に記録にあらわれるのは、平安時代の『延喜式』となります。延喜式は貞観式を改正したもので令や格の施行細目に当たるものです。丹波は宮内省の御贄(天皇の食事)や大膳司の進菓子として平栗、搗栗、甘栗のいずれも納め、唯一、民部省の交易雑物(色々な品の意)として進納していました。その量は多く、当時全国最大のクリの産地であったようです。延喜式は延長五年(927)の完成ですが、実際はそれより早くから令に従い、クリを官に進納していたと考えられます。
後の事ですが、大陸から接木の技術が入って大粒の栗が作られるようになり、全国の荘園では栗林が営まれ、クリを年貢の一部として徴収している地域も存在しました。『日本書紀』にも持統天皇の時代(7世紀)には国家が栗の栽培を奨励していたことが記されており、平安の末には丹波のみでなく、各地の荘園で栗林の記述を散見できます。
平安中期の『新猿楽記』では、古代において丹波国がクリの名産地であったことが記されています。平安時代から始まった「供御人」とは天皇の食料を貢進する者で、公事銭を納め貢進する産物の余分を販売する特権が与えられており、鎌倉時代初期にはその領所は荘園化していました。
室町時代後期には京都の丹波屋という問丸(問屋)が代官を務め、公事銭を納め、供御人を総べ、山科家に出入りし、クリの販売をしていました。
供御人の居た場所は、当時の丹波栗産地を代表していると思われ、氷上郡と桑田郡内となります。これらの地は扇状地や河岸段丘で水利に乏しく、当時の技術では灌漑は困難で水田とならず、栗林として利用されていたようです。

4.【丹波栗】

丹波栗の名が天下に轟くのは江戸時代のことです。
諸大名が将軍家に対して自国の名物を定期的に献上した『時献上』を参照すれば、日本六十余カ国、二百七十名にこえる全国の大名の中で栗を名物としたのは十指を超えるほどしかなく、一カ国五名の大名が栗を献上した丹波国は栗の名産地といえます。
文化元年(1804)の『武鑑(江戸時代の諸大名の氏名、本国、居城、石高、官位、家系、相続、内室、参勤交代の期日、献上および拝領品目、家紋、旗指物、重臣などを掲載した年鑑)』によれば以下となります。

武鑑 文化元年(1804年)
松平(亀岡藩)十一月
小出(園部藩)四月芽栗
十月
九鬼(綾部藩)十月丹波栗
青山(篠山藩)寒中丹波栗
小田(柏原藩)十月丹波栗

江戸時代は貨幣経済が進み、物資の流通、人々の交通も頻繁となり、大栗の珍しさがもてはやされ商品としての需要も高まっていきました。
丹波地方で魚行商をしていた尼崎の商人達は帰路は丹波栗を持ち帰り、丹波栗の名で売り歩いており、参勤交代などで尼崎を通過した西国の武士達がこれを買い、江戸や郷里に持ち帰ったため広まったともいわれています。
その名は京、大阪、江戸はもとより各地へ拡がり、多くの書物に記されるようになっていきます。

「丹波国四七品、父打栗(巻四)」俳諧書『毛吹草』 松江重頼 編 正保二年(1645)
「丹波山中にあるものを上とす。その大なること鶏卵大の如し。諸州これを種う、状、相似たりといえども丹の産に及ばず」本草書『本朝食鑑』 人見必大 著 元禄一〇年(1697)
「栗に大小あり。丹波の大栗を勝れたりとす」農書『農業善処』 宮崎安貞 著 元禄一〇年(1697)
「丹波大栗、料理ぐりなり」園芸書『花壇地綿抄』 伊藤伊兵衛 著 元禄八年(1695)

 丹波栗の名は丹波で産出された大栗を指しますが、当時の品種には、特大級を誇る『長興(光)寺』や『テテウチ(父打栗)』などが有名です。父打栗の由来には諸説あり(同じ名前でも特性などに地域差も見受けられます)、正確なところは謎のままですが、前者の長興寺は亀岡長興寺の僧が文禄年間(1592~1596)に広島から持ち帰ったという伝承があります。
江戸時代後半となると、接ぎ木など人為的な品種改良により『銀寄』種などが生まれるようになりました。
丹波栗を世に知らしめた、その二つの栗ですが、長興寺は栽培の難しさや収穫期の遅さで、テテウチは小粒といった理由などから、現在では殆ど作られていません。
全国に栽培されていた日本の栗ですが、昭和十六年頃に発見された害虫クリタマバチによる被害で日本中の栗園は大打撃を受け、以降はクリタマバチに抵抗性を持つ品種(銀寄や農林省技術研究所が開発し、昭和34年に発表した新品種、伊府・丹沢・筑波など)が主に育成されて現在に至ります。

 最盛期の昭和53年では1,500トンを超えた丹波栗の生産量も平成18年では66.7トンと1/20以下に減少しており、兵庫や京都も例外ではありません。
近年は兼業農家の増加や後継者不足などの問題や都市近郊の住宅地開発などによる栗林の減少など、クリの前途には懸念も多いのが現状です。
日本の市場に出回る栗は約75%までもが輸入品、日本国全体での栗出荷生産量は約15,600トン(2009年)であり、生産高で見ても京都や兵庫の順位は8位より下に位置します。
丹波栗はその知名度と裏腹に生産量は少なく、国内でも高品質で貴重なブランド栗の代表といえます。

5.【丹波栗】の特徴

丹波の栗は最高級品とされ、大粒で色つやが良く、料理に使っても煮崩れ色落ちしない栗で、京野菜の一つにも認定されています。
栽培地は標高130m付近の標高300m~700mの山に囲まれた地域で、昼夜の温度差が激しい丹波の気候条件から、寒さに耐えられるように果実の中に養分を多く蓄え実が締まるといわれ、まさに丹波を代表する秋の味覚といえるでしょう。

丹波栗は丹波で採れる高品質で美味な大栗の総称であり、実際には一つの品種を指す訳ではありません。現代では丹波出身の『銀寄』などが代表的品種です。

『銀寄』は、天明・寛政の飢饉に際し、歌垣村(能勢町倉垣付近)から亀岡へ出荷したところ飛ぶように売れ、どっさりと銀札が集まったので、そのような名で呼ばれるようになったといいます(近年まで銀寄、銀由、銀善、銀芳、銀吉などと各々の名前で呼ばれていましたが、大正2年と3年に京都府立農事試験場綾部分場で開催されました栗品種名調査会で銀寄と統一することが協定されました)。

伝説では、能勢の奥勘右衛門が、宝歴三年(1753)清正講で熊本に行き、帰路の広島で種を得て持ち帰ったのが栽培のはじまりと言われています。他にも様々な種類の栗が栽培されていますが、僅かながらも『長興(光)寺』や『テテウチ(父打栗)』といった昔ながらの品種も栽培されています。

6.音衛門の丹波栗菓子

贅沢に丹波栗を使った、栗のテリーヌ「天」

お菓子作りの主となる素材はもちろん細部にわたる材料まで、おとえもん自らが納得のいく出会いを求めて世界中を飛び回っております。
足立音衛門の本店は、京都福知山にございますが、この近辺では秋になりますと大変立派な丹波栗が実ります。栗オタクのおとえもんは、その丹波栗をふんだんに使ったテリーヌなどをご用意しております。
A級品の中でもさらに粒のきれいなものを選別し、おしみなく使っています。丹波の盆地 特有の気候で育った栗はでんぷんたっぷりほくほくの味わい。低糖度で仕上げましたのでぎゅっと実のつまった栗の風味を楽しむことができます。
収穫量の限られた、丹波の恵みを最高の焼き菓子に仕上げております。

参考文献(敬称略)
「丹波史を探る」 1988年 細身 末雄 著
「クリ果実―その性質と利用」 2001年 真部 孝明 著
「新特産シリーズ クリ」 1996年 竹田 功 著